6.大和大納言と崇神帝

(奈良県:斑鳩・山の辺の道エリア)

本来なら地名がタイトルにくるべきなんですが、今日行ったところはタイトルにふさわしいゆかりの場所ばかりだと思います。

奈良の中でも行きたかったところです。今日は奈良の目的地に向かうにあたり、好きな道を通っていきました。

栗東トレセンの横を通って金勝山を越え、信楽から伊賀上野へ。ただ、伊賀上野に入るにしても、阿山回りの

平坦な道ではなく、諏訪という山里を通るルートで入りました。伊賀上野市の諏訪地区に入るためには山をいったん越えないと

入れません。ですが、その山を越えると、少しひらけた盆地に出ます。「諏訪」という地名は日本各地にありますが、元々は

山間の開けた土地(諏訪盆地は正しくそうです)を指す名詞だったのでしょうか。諏訪地区から更に山を越え、

上野市から名阪に乗り天理市にある石上神宮を目指すつもりでしたが、通り道なので月ヶ瀬梅渓に立ち寄りました。

ですが…。時期が早すぎて、梅なし人なし感慨なしという有様…。

<月ヶ瀬梅渓から谷を望む>                   <唯一咲いてた梅>

梅渓の道は高い位置にあるので、見晴らしは非常にいいです。時期さえあえばきわめて絶景だったのかも知れません。

その後はかってよく走った名阪国道を天理東インターまで。福住インターから天理東インターまではくだりの急カーブが

続きます。車高が高い車に乗っているせいでかなりびびりながら、昔走っていた頃のリズムを思い出しながら下りました。

こえええええええええええ!

天理東を降りると、すぐに石上神宮につきました。静かなでおごそかなお社です。

<石上神宮の入り口>                       <石上神宮の拝殿>

崇神天皇をタイトルに持ってきた理由は既にこの神宮から始まります。この石上神宮、物部氏の氏神なのですが、

建立されたのは崇神帝の時代だそうです。天理東インターから真南に大神神社に至るまで、崇神帝時代の遺物が点在しています。

即ち、実在する天皇としては最初の天皇との説がもっとも有力な崇神帝の勢力圏がこのあたりにあった、だから

大和朝廷=大王家発祥の地はこの地であったわけです。物部氏は蘇我氏によって滅ぼされ、蘇我氏もまたその後

大化の改新で滅ぼされているので、その後朝廷によって編纂された記紀からは本来の業績が抹消されていると思われますが、

物部氏はもっと大王家に近しい存在だったはずです。ここの御神体は、神武帝が国土平定の折に用いた剣、スサノオがヤマタノオロチ

退治に用いた剣であり、武門をつかさどった物部氏の氏神としてふさわしいと言えましょう。

 

次に、私は崇神天皇陵、箸墓古墳へ向かいました。崇神天皇陵は水堀に囲まれていました。立ち入り禁止のせいか、水堀は

水鳥の楽園となっていました。恐らく盗掘されているとは思いますが、どうして宮内庁は発掘調査を認めないのでしょうか?

この国の形を明らかにするからこそ、皇統の正当性を強化しこそすれ、それが皇室にとって不利益となるものではないだろうに…。

崇神陵のすぐ横には、前方後円墳と思しき丘がありました。奈良で丘らしきものは全て古墳か?と疑ってかかった方が

よさそうです。またそこからさほど遠くもないところに箸墓がありました。住宅地や田んぼの中にいきなりこんもりとした林が

あるので、知らなければ、ただの藪かなんかかと思うかも知れません。ですが、生垣で囲まれ、管理用入り口とおぼしきあたりには

門が構えられていました。ヤマトトモモソヒメがまつられていると言われ、卑弥呼ではないか、と言われている人物であります。

<崇神天皇陵>                            <箸墓古墳:管理用入り口>

<箸墓古墳:鳥居>                         <大神神社>

この後大神神社に向かいました。御神体は三輪山そのものだそうです。日本神道はもともとアニミズムだったと思われますが、

そういう意味では原型をとどめていると言えましょう。うっそうとした杜の中のたたずまいで、きわめて大きなお社でした。

大王家の本来の守護神だったのではないかと推測します。梅原猛氏が著書「神々の流竄」で、ヤマタノオロチ神話は

出雲神話ではなく、本当は大和だったのではないか、その大蛇は三輪山を支配する一族を指すのはないかと指摘

されておられました。大神神社の神様は蛇体であり、これがヤマトトモモソヒメに通っていた云々という話が

ありますから、蛇神信仰が崇神帝当時はこのあたりで盛んだったのかも知れません。

 

この後、私は国道24号線に出て北上、一途大和郡山へ向かいました。大和郡山はかって戦国大名筒井順慶の

領土でしたが、秀吉の天下統一に伴い秀吉の弟豊臣秀長(以後大和大納言とします)の居城が築かれることと

なります。堺屋太一氏の「豊臣秀長」で初めてこの人物を知り、以後私はこの人物に傾倒していったのですが、

大和郡山の人々の間にもこの秀長という人物は、未だに尊崇の念を集めているようです。春岳院で、お寺の方に

色々とお話を聞きました。もともと秀長の菩提寺であるこの寺の寺領も相当大きかったようなのですが、

その後の徳川により、寺領は削られ、非常に小さいお寺になったそうです。現存しているお寺も町の中に

ひっそりと存在しています。1月22日が命日なのですが、寒いため、毎年4月22日に法要が営まれる

そうです。また堺屋太一氏もここを訪れ、大河で秀長を演じた高嶋政伸氏もここを訪れたそうです。具体的に

秀長がどう郡山を統治したかと言うと、町の様々なルールを記したものを御朱印箱と呼ばれる塗り物の箱に収め、

13に分けた各町を回覧させたそうです。ですがその統治は町を繁栄させこそすれ、厳しいものではなかった

のでしょう。だからこそ未だに秀長の威徳が残っているのだと思います。

その後郡山城跡に行きましたが、今は面影なく、城もどきの市民会館(ちょっと醜悪だと思う)が立ってました。

それから大納言塚(秀長の墓所)に行きました。ここも市中の住宅地のなかにひっそりとありましたが、

手入れされており、ここでも秀長が未だに町に存在し続けているのを感じました。

<春岳院>                     <郡山城跡:天守台跡>

この後、24号を北上し、木津の橋にさしかかったとき、かってよく買っていた餃子の屋台がまだあるのを見かけました。

神戸の古屋さんが東の横綱なら、この屋台は西の横綱だと思ってます。もう多分食べる機会はないだろうと思い早速購入、

食べました。おいしかった…。マヨネーズを添えるあたり、餃子の本質をよく研究していなければできないことです。

もう滅茶苦茶幸せ

 

関西を離れるまであと残り47日(2月12日現在)となりました。